人に話す
もう半年も前か
チラッと友達に聞いてもらって、自分が思っていたよりもショックを受けていたことに気づいた話。
母の義理の兄弟、私の叔父が癌を患ってしまった。私は、叔父がどんな人かよく知らなかった。
お盆に実家に帰った時、母はお見舞いに行こうか迷っていると話していた。それから数週間後、叔父が亡くなったと実家の母からLINEが来た。
お葬式に行くのかと聞くと、「行かないで、香典だけおばさんに持って行ってもらう。本当は行きたいけど」と。
私は用事があるのかと思い「行けないの?」と聞いたら、「お父さんがそう言うから、しょうがない」と言われた。
?????????。
けど数秒後には、そういえば父も母もそうゆう人だったと思った。
「そう言われて、お母さんがそう思うなら、しょうがないね」と送った。
時代が違うからとかやっぱり理解できない。どんな時代で、どんな常識の中で生きていたのか、私は一生わからないと思う。
でも母の親戚のお葬式に、なぜ父の言葉が関係するのか。従う必要があるのか?…でも母はそれでいいのか…。
友達に話した時、妙に熱がこもってしまい、ああ、私はこんなにショックだったんだと思った。
友達に理解してもらえた事が本当に良かった。
こうゆうことは本当に沢山あるし、そんな中で18年も過ごしているから、自分も気づかないうちに古臭い常識をもっていると思う。
気付いた時にすぐ考え方を直していきたい。
誰も悪くないんだよな
いつもよりお洒落をした
最近、動物を食べることについて考えていた。はっきりといつから考えていたのかは分からないけど、思い当たるのは、実家で飼っていた猫のトマトが死んだことだった。
今日、マームとジプシーの「クラゲノココロ モモノパノラマ ヒダリメノヒダ」という演劇作品を観た。
仕事の都合で今日か明日しか観に行けず、なんとなく今日にして、今日上演されるのがこの作品だった。
藤田氏の過去作品から、「動物・人体」をテーマにした3作を1つの時間に再編集した作品。
1年ほど前に、ちょっとしたきっかけがあり、マームとジプシーが、藤田貴大さんがきになる存在になった。
だから過去の作品をほぼ知らない中、この作品に、今出会えた事が、「ちょうどいい」と思った。
上演前に、偶然、通話をすることになった。相手は、最近話したいと思っていた方だった。
話したかった話はしなかったが、話したい事がある事は伝える事ができた。
作品を観終わり、考えた。
トマトはどこへ還ったのか、モモのように最後まで生きようとしていたのか、モモとは違い死ぬために家を離れたのか。
父が育てている、実家の裏の牛小屋で生きていた牛は、いつ殺されていつ食べられていたのか。
牛肉が美味しいと感じるのに、牛が屠殺されるのは哀しいと感じること。
小学生の頃、母の職場の周りに増えすぎた野良猫。隣の地区の公園の小屋に置いてきた、グレーの縞模様の猫は、海の砂浜に置いてきた尻尾が短い猫は、私が泣きながら帰った後、どうしていたのだろうか。
隣のブランコにいつの間にか乗っていた子が、帰りの会で、私と遊んで楽しかったと言っていたこと。
隣のクラスの男子が、子猫を川に流したと笑いながら話していた事や、一度好きになった人が、猫が増えすぎで困っていると話した時の嫌な気持ち。
実家を離れて暮らし、実家に帰りたいと思う事や、幼い頃骨折し、手術した時の傷や、消えない虫刺されの痕。
賞味期限が切れたハムをゴミ袋に入れた時の事。
中学の頃、夜、1人茶の間で本を読んでいると、あぐらをかいた私の膝にトマトが乗っかってきた事。ゴロゴロ喉を鳴らしながら目を瞑り、私が部屋に行くと一緒に階段を登ってきた事。
今作っているものの意味や、作り続ける意味があるのかどうか。
こんなこと稚拙と思う人はいくらでもいるんだろうな。
ちょうどいいと感じていた事も、実はずっと考えていて、もしトマトが生きていてもちょうどいいと思ったかも知れない。
でもやっぱり今の私に寄り添ってくれた作品だったと思いたい。
猫と牛の違いはそんなに無いと思いたい。
しかし、私はしばらく肉を美味しいと感じながら食べるだろう。